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“足袋”と聞くと、現在では礼装や日常に使用するイメージがある。しかし武士の場合は本 来、礼装や日常生活は裸足で行い、足袋は専ら武装用として用いられていた。平安時代後期には、 武家の台頭によりいわゆる“大鎧”と呼ばれる甲冑が完成し、上級武士はこの鎧を着用して騎乗で 戦いを行っていたが、その際足元には、騎乗用の履物として“貫(つらぬき)”と呼ばれる革製の 沓のような物を用いていた。この貫の下に足袋の原型のような物、若しくは革製の襪のようなもの を用いて靴擦れを防いでいたのではないかといわれており、絵巻物にもそれらしきものが描かれて いることが確認できるが、実際にどういったものが、どのように用いられていたのかは、現在でも はっきりとは明らかになっていない。 鎌倉期から室町期に掛けては、上級武士は相変わらず大鎧を用いていたが、この頃には、既 に貫の下には革足袋が用いられていたと言われている。また下級武士は徒歩で戦いを行っており、 草鞋を用いていたとされているが、通常は素足に草鞋履きであり、場合によっては革足袋が用いら れていた。革足袋は、当時の標準であった、筒が長く紐で留める形のもので、革足袋は布のものよ り頑丈な上足の保護になり、また長持ちするので武装用には都合がよかった。当時の革足袋は、現 在より筒の部分が5cm程度長いもの(鞐でいうと7〜10枚程度の足袋の長さ)を使用していた。
貫、但し模造品です 時代が下ると、貫の使用は少なくなり、草鞋に革足袋の組み合わせが多くなっていった。戦 国期頃には、戦闘の形も馬上で刀を使用した一対一の戦いから、徒歩で鉄砲を使用し集団で戦闘を する方法に変わった為、当世具足という新しいタイプの甲冑が完成した。この頃になると、草鞋や 足袋がさらに一般化し、また戦闘方法の変化に伴い戦闘に参加する人数が増えたこともあり、貫は ほとんど用いられず、上級武士にも足袋に草鞋が用いられるようになった。しかし当時、木綿はま だほとんどを輸入に頼っており高価であったため、まだ革足袋が多く使用されていた。それでも次 第に木綿が国内で栽培されるようになると、木綿の足袋も用いられるようになり、底を刺子にした り、革を当てて丈夫にした物が用いられた。
江戸時代に入り平和な時代になると、甲冑は武士の晴着の一種として捉えられるようになっ た。上級武士が元服や正月に用いる事もあったため甲冑は製作され続けたが、戦闘があったわけ ではないので実用に耐え得るようなものでなくなっていった。足袋も、革足袋が用意されることも あったが、刺子の足袋や通常の足袋が用いられる事が多くなった。 幕末、世の中が不安定になると、多くの武士は、体面上出陣する際には甲冑を着用していな ければならないと考えたため、一時的に甲冑を着用するものが増加した。その時は刺子足袋が多く 用いられ、革足袋も一部用いられた。その後明治維新がおこり、武士が戦闘の為に甲冑を着用する ことはなくなった。初期の明治政府軍は洋装を採用したが、当初は革靴が普及していなかったため か、草鞋に足袋が用いられた。 ちなみに武士の場合、弓や槍を使う際に左手が前になり、そのため左は敵に向かう方向とさ れることから、衣類を身につける際には左からという習慣があり、足袋も同じく左足から身に付け る。こだわる方は是非お試しを! ※ 以下、明治維新以降の戦闘と足袋に関しては、調査することも難しいですし、このページ では取り上げません。ご了承ください。 ※ 当然管理人は甲冑や武将に関して全く詳しくない為、間違った点を発見さ れましたら遠慮なく突っ込んでくださいf^^; ※ 言葉の意味や読み方が分からない部分については、“漢字の読み方と意味”をご覧く ださい。但し、詳しく説明できる自信はありません(^_^;
<画像:時代祭:博物館清洲城> | ||||
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