足袋の歴史3…江戸時代の足袋

History of Tabi3(Tabi in early modern)



 江戸時代に入っても、初期の頃は革足袋が多く用いられていた。この頃用いられた革足袋は主に 鹿革で、“小人革”や“シャム革”と呼ばれる輸入物が多く使用されていた。また江戸期には、現 在の足袋の主流である木綿足袋が作られ始めるようになる。木綿足袋は、史料や文献によっては長 岡三斎(武将:細川忠興)の母が製造を始めたという記載が見られるが、性格には分かっていない 。革足袋に変わり木綿足袋が普及するきっかけとなったのは、足袋の材料となっていた鹿革はほと んどが輸入に頼っており、鎖国を始めたため鹿革の輸入量が激減したという事、明暦の江戸大火以 降、防火用として革の羽織が流行し、結果として革の値段が高騰したという事が影響していると言 われている。
 天和(1681〜83)の頃には、畝刺(うねざし)織という織り方で作られた、畝刺足袋と いう木綿足袋が流行した。畝刺というのは、晒(さらし)木綿の布を重ね、補強のために太い糸で 田畑の畝のように縫う縫い方である。他にも丈夫な雲斎織が用いられた足袋や、絹足袋も作られた が、江戸中期頃までは畝刺足袋が多く用いられていた。この頃には他にも桑染足袋、兜羅綿足袋、 金巾足袋と呼ばれる、それぞれ織り方の異なる足袋が流行している。当時の足袋はまだ革足袋の 名残が残っており、筒の部分が長く、鞐ではなく紐で止めるものであった。
 現代放映される時代劇では、武士はもれなく足袋を履いているが、当時の武家には江戸時代 以前と同じく足袋の使用に関する厳しい規定があった。その規定の内容は、足袋を用いることがで きるのは50歳以上のもので、それも10月1日から2月20日の間と規定され、例え病気等で足 袋を用いるとしても“足袋御免”と呼ばれる主君の許可を得なければならないという厳しい制度が あった。また大奥でも、足袋を用いる事のできる期間が厳格に定められ、有職家により装束につい て解説された書においても、「武家は礼装の際素足である」という事が記述されていた。このよう な制度は、木綿足袋が普及し、容儀を整えるために足袋を用いるようになると共に有名無実化して いったと考えられるが、足袋御免の制度自体は文久2年(1862)年の武家服制改革まで存在して いた。
 また明治期の女中の記憶から、大奥における足袋の使用状況が明らかになっているが、それ によると例え御台所であっても絹製の足袋は通常用いられることはなく木綿の紐足袋が用いられて おり、紐部分のみ白羽二重が使われていた。また同じ足袋は1日限りしか用いず、夏は朝の総触れ の時以外は足袋を用いなかったという。

 その他、伝統を重んじる公家の間では、江戸期になっても参内の際などには依然襪が 用いられており、指貫には勅許がないと襪を履くことはできないという制度も残っていた。実際に 1780年代頃に著された『譚海』には、60をこえる老人を除き公家は足袋を用いることが許さ れておらず、寒中であっても素足のため、あかぎれが絶えることはなかったとの記述がある。一方 で、公式には襪や足袋を用いることができなかった公家であっても、家庭内においては防寒のため や容儀を整えるために広く足袋が用いられたとも言われている。


当時一般的に用いられた紐足袋

 江戸時代の中期、享保(1716〜1736)の頃になると、木綿足袋が広く普及し、庶民 の間でも容儀を整えるため、またファッションとして年間を通して足袋が用いられるようになった。 現在の足袋のような筒の短い足袋も登場し、それまでの筒の長い足袋に対し“半靴”とも呼ばれた 。また、畝刺しの足袋に変わり、現在でも用いられている綾織や雲斎織の足袋が登場し普及してい った。色の流行は変化していったが、次第に白色、黒色、紺色の足袋が多くなっていった。江戸に 居住する武士の間には、礼装の際に白足袋を用いるという考え方が広まり、また江戸町人は、紺足 袋を用いるようになった。ちなみに黒足袋や紺足袋といえば、現代でも通常は白色の底が用いられ るが、これは当時、礼装である白足袋を履くには場違いな時や、白足袋では目立ちすぎる場に黒足 袋や紺足袋を用いても、底を白色にしておけば座った時にまるで白足袋のように見え礼装の変わり にもなるため、江戸の町人の間で広がっていったという説がある。
 そして元禄(1688〜1704)の頃には、中国から渡ってきた財布に付いていた爪を応 用して、現在の足袋の原型となる、足首を鞐(こはぜ)でとめる足袋が紐足袋に変わるものとし て発明された。また同様に、ボタンでとめる足袋も作られた。筒の短い“半靴”の足袋には、鞐や ボタン掛けが多く使用されたが、紐付きの足袋も農村部を中心に使用されていた。紐足袋にも、紐 が2本のもの、1本のもの、足袋についているものやそうでないものなど、多くの種類があったが 、次第に前に紐が2本ある形に統一されていった。ちなみに時代劇では鞐の足袋を用いている場合 が多いが、特に農村部においては鞐掛けの足袋が広く普及するのは明治時代に入ってからである。
 江戸後期になると、足袋を専門に製造し販売する業者も多く見られるようになった。当 時の絵図や名所図会には、足袋屋や足袋の看板が描かれており、足袋の産地として行田(現在の埼 玉県)の名が広く知られるようになった。また松本(現在の長野県中部)周辺は足袋底の産地とな り、江戸末期には、年間10万足もの足袋底が製造され、中山道を通じて行田などへ運ばれていた との記録がある。


江戸時代に使われた足袋の型紙

 足袋は常装としても次第に普及していったたものの、それでも大多数の農家では、作業用の 履物として、また礼装としてのみ用いられており、普段履きに用いられることは少なかった。また 服飾規定としての足袋に関する禁令が、支配者層から度々出された記録も残っており、例えは阿波 (現在の徳島県)のある地域では、寛政年間(1789〜1801)に身分に即した足袋を用いる こととの規定が出され、農民だけでなく医師や神主といった身分の人々についても、祭礼など特殊 な場合を除く普段使いには、白足袋ではなく紺足袋を用いられることと定められていた。
 江戸時代初期までは盛んに用いられ、木綿足袋が普及した以降も一部で使用されていた革足 袋は、高価になったという点と、木綿足袋と比べて、長い間履いていると蒸れて悪臭を放つのに洗 えないという欠点もあり、次第に姿を消していった。しかし明治維新前の騒乱期には、攘夷意識に 刈られ伝統的な武装をはじめた武士に好まれ、一時的にまた革足袋が使用された。また山村におい ては、明治期以降も地下足袋が普及するまで作業用の履物として革足袋が使用されていた。
 また足袋の大きさを測る単位として“文”という単位が使われるが、これは江戸時代以降の 風習で、1文銭を何枚並べるかという意味である。



         

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