足袋の歴史2…革足袋、踏皮の時代

History of Tabi2(Tabi made by leather)


 平安時代以前から貴族の間では襪(しとうず)という履物が用いられていたが、一方で庶民の間 でも、革で作られた足袋のような履物が用いられていた。このような庶民の履物が足袋の直接的な 起源とされる説として、平安時代初期頃、山家(やまがと読む。山野関係の職業であったと思われ る)と呼ばれた人々が山野において足を保護するために、動物の皮で親指部分に股を付けた履物を 作り、その履物が後世の革足袋の起源となったと言われている。時代が下り、平安時代中期頃には 武士も革足袋の原型となるものを用いていたと言われている。
 また“たび”という言葉の語源は、『倭名抄』に、“町人は鹿皮を以て半靴(はんか)を為 (つく)る。名付けて単皮(たんび)という”とあるように、単の皮を用いたので、“単皮(たん び)”と呼ばれ、それが“たび”に変化したという説がある。他にも指が分かれている足袋の形を 鼻に見立て、両足そろうと4つの鼻に見えるために“多鼻(たび)”と呼ばれるようになったとい う説や、旅に出る時に、素足で草鞋を履くと足を痛めるため、鹿皮で出来た袋で足を包んで出掛け たため“旅”から“たび”という言葉が生まれたという説がある。いずれにしても、鎌倉時代初期 の『宇治拾遺物語』の中には、既に“足袋”という漢字と言葉が使われており、この頃にはすでに “足袋”という言葉が使われていたという事がわかる。しかしこの頃用いられていた“足袋”は、 現在のもののように指が分かれたものなのか、それとも襪のように指が分かれていないものであった のかは不明である。

白い革足袋と武装用足袋
奥には足袋を作るための足型が見えます
秋田マタギ(=猟師)の用いた毛足袋
革足袋の一種でしょうか

 武士は足袋や襪(前項参照)など現在の靴下に相当する履物を、普段着として用いないもの とされていたが、武装をする際には毛履(けぐつ)などの沓(くつ)が用いられ、移動や戦いで動 く事も多かったため靴擦れを防ぎ足を保護するために、革足袋もしくは革製の襪のような物が用い られてきた。その後草履の普及と共に、襪に変わり指が分かれた足袋が用いられるようになった考 えられる。鎌倉、室町時代や戦国時代はまだ日本には木綿が入ってきていない、もしくは入ってき ていても普及していない時代であったため、足袋は鹿皮や猿皮をなめした革で作られていた。 “皮を踏む”という意味から、踏皮という当て字も多く使われていた。その頃の足袋は、現在のもの より筒長で、紐で足首に結ぶ、紐足袋タイプのものであった。また山間部や農村部でも作業には革 足袋が使われていたが、草履は用いず足袋跣で、今の地下足袋や長靴のように使われていた。

貫、またの名を毛靴
どうみても靴擦れが待っています
戦国武将人形が履いていた蜻蛉柄の革足袋
武装時はこんな足袋を用いていたでしょうか?

 室町時代には、京都に都が移り世の 中が安定したこともあって、武士の間には革足袋が普及し、男性は白の革足袋、もしくは小桜な どの模様を染めた小紋足袋、女性は紫色に染められた紫足袋を履く習慣が生まれた。その後、戦 乱が広がるに従って、軍装としての革足袋の使用が一般化していった。武装には無紋ふすべ革の 革足袋が使われていたと言われている。武家の間では、足袋の使用については細かく規定されて おり、鎌倉時代には武士の平服として、室町時代や江戸時代には礼服として用いられていた装束 “直垂(ひたたれ)”には足袋を用いてはいけないと規定されていたように、当時の武家の間で は人前で足袋を用いるのは無礼であると考えられており、礼装の際や主君の前では素足であるの が本義とされた。


            

   


<取材:清洲城・喜久や足袋様・日本はきもの博物館様>
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